クラブについて −成り立ち−

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明石ロータリークラブ事始めの記
 戦前、神戸RCでは姫路市に新クラブを結成すべく、久米君(神戸)より当時勧銀姫路支店長であった武貞君(現神戸西)を通じ、 地元の有力者である今井分作氏に働きかけたが、軍部の反対により結成することができなかった。
 神戸RCは戦時中、軍の圧力によりRIより脱退という不幸な事態に陥ったが、昭和24年3月31日復帰総会を開催、4月13日正式認証を受け、 6月2日伝達式が挙行され、国際社会に復帰した。RI第60地区で、手島知健ガバナー、鈴木岩蔵会長、百崎辰雄幹事であった。
 神戸RCは戦前からの懸案であった新クラブの結成へ踏み出し、25年2月23日に姫路クラブを創立したが、明石へは24年秋ごろから働きかけがあった。
 明石では22年5月に神戸銀行明石支店内に、「明石経済クラブ」(山本英之会長)が誕生しており、 24年1月30日には若手会員を主とした「明石YGクラブ」(米沢由次郎会長)も結成されており、RC創立への機運も芽生えてきていた。
 大和製衡・井上治郎社長が神戸RCの会員だったので産婆役となり、神戸RCの小菅、直木、沢田、辻、久米、平島さんたちのお世話により明石の矢野会頭、 木下、米沢、山本、梶の四君がキーメンバーとなり、初代会長に矢野君、幹事に米沢君をほぼ内定してクラブ結成の準備に入った。
 当時、神戸RC鈴木会長がご病気であったので、直木次期会長等が明石経済会館にこられて説明があったが、あまりむずかしい話はなかった様である。
 キーメンバーがそれぞれ手持ちメンバーを出し合い、約40名程度の候補者を選出し、この内より「23名」が創立会員となったが、この選考は非常にきびしいものがあった。
 25年7月神戸RCは直木会長、平島幹事(手島ガバナー)が就任され、この時米沢初代幹事が申込書を作成したが第1回は書類不備のため返却されてきた。 これは地域の問題で「明石市」の内に西部地域が経済圏として含まれている事を知らなかった為であった。 また文献類はほとんど英文でどう翻訳するのか困った。当時のフォーラムは翻訳の討論会のようであった。
*  創立会員名簿もRIに提出したものを2、3回訂正したものとなり、また正式メンバーの丸尾儀兵衛、伊藤英一2君は全然出席がなかった。(26年2月28日付退会手続き)
 25年9月25日第1回創立準備打合会を開催し、申込書を作成提出し続いて9月27日に第2回打合会を重ねて開催した。 (神戸RC会員出席)小菅さんが「ロータリーとは」という薄い本でR情報をやられた様である。
 25年10月24日(国連記念日)午後3時より、神戸銀行明石支店2階会議室で「仮発会式」を挙行した。出席率は23名中20名、87%で、会費300円を徴収し、「奉仕こそ我がつとめ」を200円で購入願った。 当日のプログラム等は神戸RCが作成されたもので、小菅、直木、沢田、久米、平島会員が主席された。全国で48番目、県下では姫路に次いで4番目のロータリークラブとなった。
 次の例会は11月1日に開催し、米沢幹事より1時30分には必ず閉会し例会費を100円とする、また出席奨励、神戸RC例会等について解説があった。
 25年11月27日RIより「正式加盟」認証の通達があった。12月6日「伝達式準備委員会」(木下委員長)を設け、各準備委員を定めた。伝達式開催までに各会員が手わけして各地の伝達式を見学し、 その報告を基に準備を進めたが、特に会員婦人の協力が強く望まれ、12月25日明石経済会館で「第1回家族会」を会費800円で開催し、婦人の理解と協力をお願いした。 「第2回家族会」を26年2月14日江井ヶ島至誠館で開き、神戸RC直木、沢田2君が来賓として参加されたが、当日積雪の為出席が少々悪かった。
 ガバナー公式訪問が、26年5月2日に手島ガバナー、随行直木神戸RC会長で開かれ、手島ガバナーより「RCはだんな衆のより合いでない」との卓話があった。
 手島ガバナーは「つる市」に宿泊されたが、つる市のおかみさんをご存知で話がはずんだ上に、お土産の「しおやき」も気に入られ大変に喜ばれた。 と言うのは、姫路RCの公式訪問の際旅館で手島ガバナーの洋服が盗難にあい、急に身体に合う洋服が入手できない時代で、手島ガバナーも姫路クラブも困りはてたことがあり、 明石であんな事があってはかなわんと心配されておられた為であったようである。そこで伝達式の盗難防止には小野会長が大きなロッカーを持ち込み大和製衡の社員が終日、厳重に管理した。
 伝達式は米沢幹事の行き届いた細部にわたる準備のもとに26年10月24日、式典は「明石商工会館」観光は「明石公園菊花展」余興は「文楽」と盛大に、成功裡に開催された。 登録料は1,000円、参加者数217名。「加盟認証状」が星野ガバナーより矢野初代会長に伝達され、遠く北海道の会員も参加され、会員の持ち寄ったおみやげ品も多数あった。
 明石屋の弁当300円は特に参加者の好評を得たし、余興の「文楽」は100名の一座で経費は50,000円であったが、これは担当の伊藤悌会員が明石市役所の加藤茂氏のアドバイスにより、 NHKに交渉して来演してもらったもので、三味線と人形の動きについて特に公開実演してもらった。(吉田文五郎)
*  伝達式は「明石商工会館」の完成を待って行ったので仮発表の1年後になったが、半年後に発足した「尼崎RC」が先に伝達式を挙行されたのであまり派手にやらない様に、 「姫路RC」の伝達式は赤字で後で苦労された事を知り、会員の分担金を増額し式典後その余剰金で京都で家族会を開催し、会員家族に大変喜んでもらった。
 発足当初はクラブ事務局はなく、米沢、福田、尾坂、古閑、成定の幹事までは事業所が自宅にクラブ事務所があり、会計は神戸銀行支店長が自ら各費用を例会毎に集金しており、 会費と食費等は別々で多忙をきわめた。
 岸石油(伊藤悌会員)の酒井登喜子さんに約2、3年手伝ってもらっていた。出席については矢野会長、米沢幹事が毎例会ごとに注意をしたが、一向によくならなかった。
 食費が別になっておった為か、柴田会員はいつも「弁当持参」であったとか・・・・・・。

 ※この記録は、昭和51年6月1日明石屋に於て、長、米沢、伊藤の創立会員及び山森会長、西海正副幹事及び成定会員が懇談し、成定会員が記録したものである。